この四年間のこと
気づけば、前回のブログを更新してから4年半も経過していた。
コロナ禍を経て、社会の在り方や人々の価値観が随分変化したように感じる。

私の人生はコロナ前と変わらず、飽きることなく目まぐるしい。
楽しかったこと、嬉しかったこと、達成できたこと、幸せだったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、絶望したこと。
私はそのほとんどをあまり人に言いたいとも思わなかったし、過去を振り返るよりも今を大切に生きていきたいと考えてきた。
でも、言葉には「鮮度」というものがあって、今しか話せない言葉はたくさんある。
そして、時間の移ろいと共に過去の出来事もかたちを変え続けていく。
「過去は変えられない」という言葉があるけれど、
私は今をどう生きるかで過去の出来事だって変えられると思っている。
ある出来事を機に、ものすごく刹那的に生きるようになった私は、今の自分をブログに残しておきたいと思った。
ここ数年の出来事が完全に過去のことになったから書けるのもあるだろう、
気恥ずかしいうちは、やっぱり人には言えないもんね。
2024年の年の瀬に、自己満足だが備忘録を書いてみようと思う。
コロナ禍の復職
再派遣を待つ人、企業に戻る人、大学院に進む人、就職する人、教職を離れる人
緊急帰国を下された協力隊の同期たちはそれぞれの道に進んだ。
私は迷いなく学校現場に戻った。
やっぱり私は教員の仕事が好きなんだろうと思う。
頭を抱えるほど悩むことは数知れず、しかし(きれいごとに聞こえるかもしれないけれど)子どもたちからもらえるパワーは何にも変えがたいものがある。
復職と同時に異動になり、新天地の学校でも楽しく働いた。
みんなとってもかわいかったなぁ。元気かな。
今でも子どもたち一人ひとりの顔をよく思い出す。
出産
復職して1年半程経過し、私は母となった。

育児というフィルターを通して、我が子には新しい世界を見せてもらっている。
人間の「個性」というものは実に強烈で、「人と自分が違って当たり前だ」ということを、育児を通してあらためて学ばせてもらった。
人生にもきっと同じことが言えるであろう。
未婚、既婚、子あり、子なし、専業主婦、兼業主婦、会社員、フリーランス、
出産に関しては、欲しくても授かれない人もいるし、欲しくない人もいる。私も流産を経験した。
人と自分は違って当然だし、なんだかライフステージや価値観の違いが以前にも増してどうでもよくなった。
生まれてきた我が子が私とは全然違うタイプだったから、そんなことをより強く考えるようになったのかな。(その違いがまた楽しくて面白い)
脳疾患を患う
娘が生後二カ月のある日、夕方散歩から帰宅したときに突然足から崩れ落ちるような感覚があり、うまく歩けなくなった。
よくわからないが高熱も出ているようだった。
近所の病院に電話をしたら、発熱者は受け付けてもらえないとのこと、
ようやく探し回った病院には「発熱者は車内で検査するので自家用車で来てください」と言われた。
視界はぐるぐる回っているし、足もうまく動かない。外も暗い。夫は不在。
こんなにふにゃふにゃの赤ん坊を連れて、事故にでもあったら一生後悔してしまう。
でも今はコロナ禍真っ最中、
万が一コロナだったら今後のスケジュールも変更しないといけない。
私は迷った挙句、自分の運転で近所の病院に向かった。
なんだか目がよく見えなくて、駐車に30分もかかってしまった。
結局、見かねた看護師さんが助けに来てくれた。(コロナを想定して代理で運転してもらうことはできなかったけど)
診察結果は、ただの風邪。
な~んだ、よかった!と安堵して帰宅。
その1週間後、起床後に突然とんでもない頭痛に襲われる。
もうそこからの記憶はない。
立ち会った母によると、私はベッドから落下して痙攣していたらしい。
搬送の際、救急隊員にもたいそう反抗的で大暴れしていたとか。
目が覚めたら、私は日赤病院の救急病棟にいて、
自分の年齢もわからないし、過去の記憶もなくなっていた。
絶望の入院生活
診断名は「急性散在性脳脊髄炎」。
「発症者が少なく、診断基準もないため恐らくの可能性で病名を伝えている。
治療法は確立されていない。
再発することもあるし、死亡するケースもある。
後遺症として、今あなたは高次脳機能障害、視神経へのダメージ、てんかんが見受けられていて
ついでに肝臓にも腫瘍が見つかった。
今のままでは復職はもちろん厳しく、日常生活も送れないかもしれない。
ここでとりあえずの治療をして、その後リハビリ病院に転院してもらうことも考えている。」
絶望した。
人生が終わったと思った。
人の話が水のように脳内から流れ出てしまい、まったく記憶に留めておけなかった当時の私は
必死にメモをとりながら先生の話を聞いた。
入院して数日後
「私は母になったんだ」
と、一番大切なことを思い出す。
「こんな薄暗い病院に閉じこもっている場合ではない、
早く娘のもとに帰りたい。」
「リハビリを頑張れば、またもとの自分に戻れるのかな。」
「脳の傷は消えないと言われた。やっぱり私の人生終わった。」
入院中は絶望と希望の繰り返しだった。
フラッシュカードを見ながら人の名前を覚えたり、小学生の計算問題をやったり、図形をかいたりして毎日を過ごした。
昨日より漢字が書けたとか、人の話を覚えておけたとか、
そういうことがたまらなくうれしかった。
治療とリハビリを続けたことで、予定より早く退院できた。
リハビリ病院への入院はなく、通院対応での了承ももらえた。
主治医や看護師さんに、回復力を褒めてもらえた。
治療にあたってくれた医療従事者の皆さんには感謝しかない。
娘との再会
退院の日のことは今でもよく覚えている。
夫と娘が迎えに来てくれた。
ふにゃふにゃだった小さな娘は、首が座り、よく笑うようになっていた。
一番近くにいてあげられなくてごめんね、という申し訳なさと
たくさんの人にかわいがってもらえてよかったね、という温かさでいっぱいになった。
退院した二日後、自宅でささやかに娘の初節句をお祝いした。
想定外の入院で娘のお雛様は用意してあげられなかったけれど、
実家の母が私のお雛様を飾ってくれた。
大切な娘との大切な思い出。
一緒に過ごすことができて本当に幸せだった。
リハビリの日々
退院してからはとにかく人前に行くのが怖かったし、
何か失敗をしてしまうのではないかといつも冷や汗をかいていた。
でも人には会っていた。
私の場合、とにかく毎日の生活に変化をつけることが
心と身体の回復には必要だと思った。
リハビリには予約のとれる限り入れてもらって
たくさん病院に通った。
リハビリの先生たちと仲良くなって
途中からなんだか楽しくもなってきた。
結果的に1年半と少しリハビリ通院を続け、
IQは標準値へ。復職も問題ないと言われた。
このときの喜びといったら!
もう一度生まれ変わって新たな人生が始まったような気持ちだった。
ここでも回復力を褒めてもらえた。
娘とおでかけ
病気の後遺症で運転ができなくなったが
(現在は運転許可をもらっています)
娘とは公共交通機関を駆使して本当にたくさん遊びにいったし、旅もした。
バス、電車、飛行機、船。
どれも新鮮で楽しかった。
京都水族館では二人でくらげの水槽に大興奮したし、
静岡に行って大好きな親戚に会えたこともうれしかった。
大阪の鶴橋にふらっと行って、まさかのエレベーターが見つからずベビーカーを担いで電車に飛び乗ったこともあったな。
沖縄の安里では知らないおじいおばあがたくさん娘のことを抱っこしてかわいがってくれた。

このときの日々のこと、娘は大きくなっても覚えているかなぁ。
リハビリが始まったぐらいのタイミングで夫は単身赴任で他県へ引っ越していったので
この時期は娘と二人三脚での生活。
豪快な母にたくましくついてきてくれた娘には感謝ばかりである。
大学の卒業
協力隊時代に、次に目指したい進路が見つかった。
そのためには四大卒の資格が必要で(私は短大卒)
活動中に通信制の大学に入学していた。
帰国後は、実習に行って学校現場以外の場所を見ることが出来たことが嬉しかったし
すてきな友人にも恵まれた。
発病したことで「もうだめだ」と思った時もあったけれど
発症から2年後、無事卒業することができた。
大学に声を掛けていただき、パンフレットやWEBにインタビュー記事を掲載してもらったのもよい思い出。
ただし白昼堂々、構内で撮影されているときだけは
全身から火が出そうなほど恥ずかしかった。
がんの可能性
リハビリ病院を卒業して
脳疾患が過去のことになり
安堵していたのもつかの間、
私は再び日赤に入院した。
倒れた時に見つかった肝臓の腫瘍を久しぶりに検査をしたところ
がんのような反応を示している
と告げられたからである。
一難去ってまた一難、
さすがにこれ以上まわりに心配をかけられないと思った私は
本当にごくわずかな人にだけ話し、正月明けの時間をこっそりと病院で過ごした。
結果を聞くまでは生きた心地がしなかった。
でも、ここで大丈夫だったら
やりたいことは躊躇なくやり尽くす人生にしようと心に決めた。
結果は良性。
それを聞いた瞬間、過去にないほどの強い生きる力がわいてきた。
結果を聞いてすぐに私は退職を決めた。
時間は待ってくれない。
以前から考えていた「やりたいこと」をすべてやるべく、動き始めた。
今までの自分の居場所も大好きだったけれど
健康な身体がある以上、行動せずにはいられなかった。
フランス語を学ぶ
協力隊を終えて日本に帰国してからも
ずっとフランス語の学習を続けている。
もちろんこの先のキャリアを見据えたうえで学びたいという思いもあるけれど
「まったくわからないことがわかるようになる」感覚は
はじめて勉強に取り組む小学生の子どもたちが見ている世界と似ているのだろうと思っている。
だから、私は彼らと同じその世界を見ていたいしこれからも学び続けていきたい。
そして、語学の学習を通じてすてきな人たちにもたくさん出会えたことは、私の宝になっている。

かなり長い文章になってしまったけれど、
これが4年間の私。
その延長線上の日々はもちろん今も続いていて
毎日がとても濃厚だ。
変化と挑戦と荒波。
きっと私はこういうふうにしか生きられないのだと近頃思う。
そんな自分の人生を、2025年も楽しく生きていきたい。
今年も一年お疲れ様でした。
今までと、これから
今日は青年海外協力隊員として、最後の日。
明日から私は、日本の公立小学校の教員に戻ります。

コロナウイルスの影響で緊急退避の指示が下り
日本に帰国した3月末からの約3ヶ月間、
私は何度も
「かわいそう」
「残念だったね」
と声を掛けられました。
心配してくれてありがとう。
でも、私はちっともかわいそうではないし、不幸でもありません。
なぜなら、途中撤退という無念さ以上に
今回のアフリカでの経験から受け取ったものが大きすぎるから。
こんなにも貴重で、特別な時間を過ごさせてもらった私は
総じて見れば
やっぱり本当に本当に、幸せ者なのです。
もちろん、悔しさはたくさんあります。
撤退の連絡を受けたときは、涙が出ました。
日本に帰国して、予想外に咲き乱れていたとても美しい桜をながめながら
「アフリカのみんなはどうしているだろう」
と考えたときも、しばらく涙が止まらなかった。

でも心の整理をつけた今は、受け取ったものたちへの感謝のほうが大きすぎて、
穏やかに現実を受け止めています。

海外で教員として働きたい、と考えたときから
気が付けば10年もの歳月が流れていました。
教師を目指そう!と思い立ち、
通信の大学で免許取得のための勉強を始めたのは、23歳。
その後、新卒から3年半勤めた会社を辞めて、
家賃22000円(共益費7000円)の家に引越し、
当時はバイトを掛け持ちしながら
自転車操業の日々でした。
(これがまたなかなかのデンジャラスマンションで、しょっちゅう事件が起きては警察が捜査に来ていたなぁ、ある意味アフリカよりサバイバルな日々だった)
教員免許を取得したあとも
なかなか教員採用試験に受かることができず、
不合格の通知が届くたびに
当時講師をしていた学校のトイレで
ひとりメソメソ泣いていたときもあったな。
そのときからずっと変わらず持ち続けていた夢が、
海外の学校で教師として働くということ。
とにかくたくさんの価値観に触れて
自分のカチコチの頭に喝を入れながら
多様性を受け入れられる、そして風通しのよい学級を作ることができる教師になりたかった。
いろいろ考えた上で
日本とはよりかけ離れた価値観の中で生活するには、青年海外協力隊が一番いい!と思い
尚且つ「帰国してから風通しのよい学級を作ること」に重きを置いていた私は
帰国後に必ず教職に戻ることができる保障が欲しかった。
調べ尽くした結果、さまざまな条件をクリアしなければならないけれど
「現職教員特別参加制度」というもので参加すれば
自分のやりたいビジョンにピッタリはまるのではないかと考え
その枠での派遣を、死に物狂いで追いかけていたのが20代から30代のはじめ。
その間に父が亡くなったり、それなりに恋愛をしたりして
うまく夢を追いかけられなくなりそうなことも何度もあった。
教員採用試験になんとか合格し
派遣枠受験のための条件をクリアして、
自治体やJICAの試験を突破できた頃には
もう10年もの年月が経っていました。

実質アフリカにいた時間だけがすべてではない、
渡航するまでも
帰国後の現在も
たくさんの感情を知り、多くの出会いがあって、
人生において特別な時間を沢山過ごすことができたと思っています。
夢を追いかけている間って、
もうそれはそれは、計り知れないほどのエネルギーが湧いてくる。
しかも私は、器用でもないし賢くもない、
何でも人並み以上に努力をしないと
「人並み」になることができない人間なので
今振り返ると本当に膨大なパワーを使って駆け抜けてきました。
自分に自信はないほうだけれど、
一心不乱、がむしゃらに生きてきたということだけは
胸を張って言うことができる。
夢を追うって本当に決していいことばかりじゃない。
時に裏切られ、思い通りにならなくて
悲しくて仕方ないときもあるけれど
良いことも悪いことも含めて
「海外で教員として活動する」という目標に
私は強く支えられ、生きてきたように思います。

アフリカでの8ヶ月間は、
予定していた1年9ヶ月に比べると
とても儚い時間だったけれど
私は確かに
アフリカで生きていました。



こんなにも自分の無力さや至らなさに向き合えることって
この先なかなかないだろうと思います。
言葉も分からなくて生活もままならない、
弱くて情けない自分。
ボランティアに来てるはずなのに
私はこの村で一番困っている人になってしまった...
と停電した真っ暗な部屋で
ひとり何度も考えました。
そんなときに、さりげなく声を掛けてくれた現地の人の言葉が泣けるほどうれしくて
「本当の人助けってこういうことか」
ということも、彼らから学びました。
初めて任地に行った翌朝、
朝食屋さんの場所が分からなくて困っていた私を、快くお店まで案内してくれたのは
8歳の女の子でした。
(後に彼女は私の親友となります)

何もできなくて凹んでいた私に
「我が家にご飯食べにおいで!」
と毎日声を掛けてくれた学校の先生、

「君は私の家族だからね、いつでも頼って!」
と言ってくれたブティックのおじちゃん、近所の人たち。




あげればキリがないほど
沢山の人に助けられて、生きていました。
ずっと思い描いていた
「沢山の価値観に触れる」という目的は、
間違いなく達成できたと思います。

経験することは、想像しているだけとはやっぱり違うことも知りました。
私はこれからも経験することを大切にしていきたいし、
でも、経験できないこともきっとあるから
最大限まで想像し続ける努力も絶やさないようにしたいな。

緊急退避となり急遽帰国した私は
きっとすぐに日本の生活に馴染んでしまって
帰国直後に感じた「日本すごい」って思いや、アフリカでの自分なんてあっという間に忘れてしまうんだろうなぁ
と思っていたけれど
私は今も「アフリカの日々」の延長を生きている感覚があって
アフリカでの日々はちっとも色褪せることはありませんでした。
今だに「わ!これが日本か」と
驚くことはいろいろあるし、
なんていうか、アフリカで経験した強烈な日々が今も自分の中に色濃く流れているのが感覚としてとても鮮明にわかる。
約10年間、私を虜にしてくれて、
そして私にたくさんの希望とエネルギーを与えてくれて、
今はこの夢に
本当にありがとう
という気持ち。
一番最初に「感謝の気持ちのほうが大きいから、私は幸せだしかわいそうじゃない」と書いたけれど
私が今穏やかに現実を受け止めることができているもう1つの理由は、
今が通過点でしかないと思っているから。
今回経験したことを必ず日本の子どもたちに伝えていきたいし、
語学の勉強ももっともっとがんばって
私が助けてもらったように
今度は日本に住む外国の人を助けられるようになりたい。
どうがんばっても自分一人の力では打ち勝つことができないコロナウィルスに反してでも再渡航するのではなくて
またベストなタイミングでもう一度国際協力に携わりたい、
今は冷静にそう思う。
きっと人生にはいろいろなときがあって
今は、今やるべきことを落ち着いて考えたい。
アフリカで毎日見ていた、泣けるほど綺麗な夕日と、どこまでも続く広い地平線は
日本では見ることができなくなった。



でも、私は、ビルがひしめき合い、真面目さと向上心が溢れかえっている忙しい日本も大好きで


きっと、両方を見ているから、アフリカでの日々をこんなに愛おしく思うのだろう。
最後に。
底抜けに明るくて陽気な現地のみんな、生涯忘れられない日々を共にしてくれて本当にありがとう。
JICAスタッフの皆さん、最後のドラマのような脱出劇の際、的確な判断と指示に本当に救われました。生活すべてにおいての心強いサポート、心から感謝しています。
隊員のみんな、先輩たち、本当に私にとっての戦友です。きちんと別れを告げられずに離れてしまったのがとても心残り。
でも、また会えるよね。
何年も何年も笑、私の夢物語に付き合ってくれて、そしてたくさん話を聞いてくれた名古屋の友達たち、今の私はみんながいてくれたからです。
家族のみんな、奔放な娘をいつも大きな心で見守ってくれて感謝しています。
そしてなにより
最大の理解者である旦那さん、
「やれることが減る結婚じゃなくて、より人生が広がるような、強く生きていけるような結婚がしたい」
と言っていた私の願いを
しっかり実現させてくれました。
本当にどうもありがとう。
あなたのことは一生越えられないと思っているし
ずっと尊敬しています。
今までの日々に感謝して、
2020.6.30
夢物語、
完!
(と見せかけて、通過点なのでまだまだ続きます。!)
ティッシュ品薄事件から思うこと
あんなに物が豊かな日本で異常なまでに奪い合い、
こんなに物が無いアフリカで驚くほどに分け合いながら
人々が生きている。
一体、どうしてなのだろう。
この極端な2つの国を眺めていて、
いろいろなことを思う。

今の私の生活と比べてみれば、
日本の生活は、もうそりゃびっくりするぐらい整っている。
停電断水も滅多になくて、山のように娯楽があって、教育や医療の環境も随分とよいものが与えられている。
しかし、日本人はよく怒っている。そして、焦っている。さらに、悩んでいるし、疲れている。
何故なのだろう。
私自身も含めて、日本で暮らす日本人の「幸せ」に対するハードルがものすごく高くなり過ぎているのかもしれない。
それゆえ、思い描いた「幸せ」が少し枠からズレてしまうと
この上ない怒りや焦りが出てきてしまうのではないだろうかと、最近考えている。
さらに、豊かさへの欲求が肥大しすぎて「もっと、もっと」と求めるがあまり、社会や人の構造が非常に複雑化しているようにも見える。
溢れるほどの選択肢から物事を選び
多数のタスクをこなして
時には人と自分を対比しながら
毎日を一生懸命生きている。
アフリカの暮らしは、もっとシンプルだ。
日本のように「豊かさ」が「当たり前」になることや
向上心をもつことができるのは
国として発展している証だから、それは喜ぶべきことだと思う。
豊かなことは決して悪ではない。
怖いのは、その「当たり前」に感謝ができなくなることなのかな。
アフリカでははっきり言って思い通りに事が運ぶことなんて非常に少ない。
思い通りに事が運ぶことが「当たり前」ではないから、少しうまくいくだけで、いつもの景色が違って見えてしまうほどの「感謝」がうまれる。
しかし、もちろんこの「当たり前」を増やしていく努力は絶対に必要で
思い通りにいかないのが善では決してない。
貧困は、何が何でも脱しなければいけないこの国の課題。
こんなことを書くと、日本という国や日本人を否定しているみたいだけれど
決してそんなことはない。
私は日本が大好きだし、日本人は世界に誇れる素晴らしい人間性を持った人が多いと思っている。
日本もアフリカも
もっと国が成熟して「当たり前」と「感謝」が両立できるようになったら、
幸せを感じられることも
人への優しい気持ちも
増えるのではないかと、一人で妄想をしている。
しかし私は未熟な人間なので、
日本の日常にいたらあっという間に「当たり前」の幸せに「感謝」できなくなってしまうだろう。
私がアフリカに来たのは、結局のところそんな自分に鞭を打ちたかったのだと思う。
教員という職業柄、
学校の閉鎖的な空間で、子どもたちに何もかもを知ったように物事を述べることに対しての恐怖心もあったかもしれない。
自分がいろいろなことを見て、経験した上で
子どもたちに「大丈夫だよ」と胸を張って言い切ってあげられる強い人間、
そしていろいろな価値観を知り、違いを認められる人間になりたかったのだと思う。
アフリカの人たちのために、
もちろん全力で努力はする。
しかし、自分のベクトルは
日本での自分や、日本の子どもたちのほうに向いているとつくづく思う。
言い換えれば、アフリカの人たちにいろいろなことを教えてもらいに来ているのだということだ。
イチローの話と重なるが
外国人になり圧倒的マイノリティとしてその街で暮らしたときと
マジョリティとして生活しているときとでは
見える景色、感じる思いは全然違う。
「暮らす」のと「旅をする」のとでも、自分の中に入ってくるものは大きく異なることがわかった。
この経験や感情は絶対に忘れないように、
日本に持ち帰りたいと思う。
アジア人への差別は、コロナの出現により
さらに根深く、強いものになっている。
私は、絶対に肌や髪の色で、人を差別しまいと
心に誓っている。
だって、それって泣けるほど悲しい。

(今週末の市場での戦利品。全部で約490円)
きっと、今は世界中が、いろいろなことを問われているとき。
考えて、気付いて、何かを変えるチャンス。
私も無力なりに考えたいと思う。
日本の子どもたちと
日本の学校、そして子どもたちと一緒に
「お手紙交換プロジェクト」
「テレビ会議 遠隔授業」
に取り組んでいます。

お手紙交換プロジェクトは、日本から来たお手紙にアフリカから返事を書くもの
テレビ会議 遠隔授業では、生中継で日本と繋がり、パワーポイントを使いながらアフリカについての授業を行っています。
お手紙が届いたときのうれしかったこと!
とっても元気をもらいました。
ありがとうございます。
アフリカに現職教員として行きたいと思い続けたのは、
目の前にいる日本の子どもたちに
「今いる場所が世界のすべてではないから、大丈夫だよ」
と自分の経験を踏まえた上で伝えられるようになりたかったことが
ひとつの大きな理由です。
自分が今生きている場所、
家庭と学校が世界のすべてだと錯覚しながら生きていくことは
時に膨大なエネルギーを消耗してしまうのかな
と思うことがあります。
踏ん張らないといけない場面もたくさんあるけれど
根性論だけでどうにもならないことだってたくさんある。
友達との些細ないざこざ
集団の中でなんとなく抱えてしまう劣等感
ちょっとした失敗
理不尽な出来事
ときに、家庭の問題
たとえ小さなことでもなんだか無性に気になってしまって
勘違いをしてしまったり
学校に行くことが辛くなってしまったり
抱えなくてもいい自己嫌悪で苦しくなってしまったり。
この世の終わりだと思うぐらい落ち込んでどうしようもなくなっても
学校を飛び出してしまえば
案外偏った価値観に支配されていただけのことだってたくさんある。
こんな世界、こんな価値観もあるのか
って知ることができれば
少し楽になれるのかなぁ
と、整った日本社会を生きる子どもたちに対してずっと思ってきました。
だから今回の2つの企画は
子どもたちの間で流れる風通しを少しでもよくして
いろいろな価値観があることを知ってもらいたい
という思いを自分なりに込めてやっています。
大前提は、すべての生き方をリスペクトすること。
しかし、大人になっても
自分の生きてきた世界にとらわれない
って意外と難しい。
だって私も
絶賛異文化に揉まれ中。笑
日々、自分の無力さと
毎日出会う新たな価値観に葛藤しながら
生きています。

私の任地は1時間ちょっと歩けば町をぐるっとまわれてしまうような
小さな田舎町です。
スーパーも娯楽施設もおしゃれなカフェもないけれど
生き急ぎがちだった自分にとっては
すべてをリセットしてくれるすてきな場所です。
ときに価値観の違いに驚かせられながらも
自分の足りないところをゆっくりゆっくり埋めてもらっている感覚です。
何もないから
とりあえずご近所さんと木陰で歌って踊っています。
目の前のことをただただじっくり楽しむことって
幸せなんだなー、と学ぶ日々です。
疲れたときは、体力が回復するまで引きこもる。
完璧になんて出来ないもの。
こちらは日曜日の始まりです。
今から市場で野菜を買ってきます。