今までと、これから

今日は青年海外協力隊員として、最後の日。


明日から私は、日本の公立小学校の教員に戻ります。

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コロナウイルスの影響で緊急退避の指示が下り
日本に帰国した3月末からの約3ヶ月間、
私は何度も
「かわいそう」
「残念だったね」
と声を掛けられました。

 

心配してくれてありがとう。

 

でも、私はちっともかわいそうではないし、不幸でもありません。

 

なぜなら、途中撤退という無念さ以上に
今回のアフリカでの経験から受け取ったものが大きすぎるから。


こんなにも貴重で、特別な時間を過ごさせてもらった私は

総じて見れば
やっぱり本当に本当に、幸せ者なのです。

 

もちろん、悔しさはたくさんあります。
撤退の連絡を受けたときは、涙が出ました。

 

日本に帰国して、予想外に咲き乱れていたとても美しい桜をながめながら
「アフリカのみんなはどうしているだろう」
と考えたときも、しばらく涙が止まらなかった。

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でも心の整理をつけた今は、受け取ったものたちへの感謝のほうが大きすぎて、
穏やかに現実を受け止めています。

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海外で教員として働きたい、と考えたときから

気が付けば10年もの歳月が流れていました。


教師を目指そう!と思い立ち、
通信の大学で免許取得のための勉強を始めたのは、23歳。

 

その後、新卒から3年半勤めた会社を辞めて、
家賃22000円(共益費7000円)の家に引越し、
当時はバイトを掛け持ちしながら
自転車操業の日々でした。
(これがまたなかなかのデンジャラスマンションで、しょっちゅう事件が起きては警察が捜査に来ていたなぁ、ある意味アフリカよりサバイバルな日々だった)

 

教員免許を取得したあとも
なかなか教員採用試験に受かることができず、
不合格の通知が届くたびに
当時講師をしていた学校のトイレで
ひとりメソメソ泣いていたときもあったな。


そのときからずっと変わらず持ち続けていた夢が、
海外の学校で教師として働くということ。

 

とにかくたくさんの価値観に触れて
自分のカチコチの頭に喝を入れながら
多様性を受け入れられる、そして風通しのよい学級を作ることができる教師になりたかった。


いろいろ考えた上で
日本とはよりかけ離れた価値観の中で生活するには、青年海外協力隊が一番いい!と思い

尚且つ「帰国してから風通しのよい学級を作ること」に重きを置いていた私は
帰国後に必ず教職に戻ることができる保障が欲しかった。


調べ尽くした結果、さまざまな条件をクリアしなければならないけれど
「現職教員特別参加制度」というもので参加すれば
自分のやりたいビジョンにピッタリはまるのではないかと考え
その枠での派遣を、死に物狂いで追いかけていたのが20代から30代のはじめ。

 

その間に父が亡くなったり、それなりに恋愛をしたりして
うまく夢を追いかけられなくなりそうなことも何度もあった。


教員採用試験になんとか合格し
派遣枠受験のための条件をクリアして、
自治体やJICAの試験を突破できた頃には
もう10年もの年月が経っていました。

 

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実質アフリカにいた時間だけがすべてではない、
渡航するまでも
帰国後の現在も
たくさんの感情を知り、多くの出会いがあって、
人生において特別な時間を沢山過ごすことができたと思っています。

 

夢を追いかけている間って、
もうそれはそれは、計り知れないほどのエネルギーが湧いてくる。

 

しかも私は、器用でもないし賢くもない、
何でも人並み以上に努力をしないと
「人並み」になることができない人間なので

今振り返ると本当に膨大なパワーを使って駆け抜けてきました。


自分に自信はないほうだけれど、
一心不乱、がむしゃらに生きてきたということだけは
胸を張って言うことができる。


夢を追うって本当に決していいことばかりじゃない。 
時に裏切られ、思い通りにならなくて
悲しくて仕方ないときもあるけれど

 

良いことも悪いことも含めて
「海外で教員として活動する」という目標に
私は強く支えられ、生きてきたように思います。

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アフリカでの8ヶ月間は、
予定していた1年9ヶ月に比べると
とても儚い時間だったけれど


私は確かに

アフリカで生きていました。

 

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こんなにも自分の無力さや至らなさに向き合えることって
この先なかなかないだろうと思います。

 

言葉も分からなくて生活もままならない、

弱くて情けない自分。

 

ボランティアに来てるはずなのに
私はこの村で一番困っている人になってしまった...
と停電した真っ暗な部屋で
ひとり何度も考えました。

 

そんなときに、さりげなく声を掛けてくれた現地の人の言葉が泣けるほどうれしくて
「本当の人助けってこういうことか」
ということも、彼らから学びました。

 

初めて任地に行った翌朝、
朝食屋さんの場所が分からなくて困っていた私を、快くお店まで案内してくれたのは
8歳の女の子でした。
(後に彼女は私の親友となります)

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何もできなくて凹んでいた私に
「我が家にご飯食べにおいで!」
と毎日声を掛けてくれた学校の先生、

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「君は私の家族だからね、いつでも頼って!」
と言ってくれたブティックのおじちゃん、近所の人たち。

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あげればキリがないほど
沢山の人に助けられて、生きていました。

 

ずっと思い描いていた

「沢山の価値観に触れる」という目的は、

間違いなく達成できたと思います。

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経験することは、想像しているだけとはやっぱり違うことも知りました。

私はこれからも経験することを大切にしていきたいし、

でも、経験できないこともきっとあるから

最大限まで想像し続ける努力も絶やさないようにしたいな。

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緊急退避となり急遽帰国した私は
きっとすぐに日本の生活に馴染んでしまって
帰国直後に感じた「日本すごい」って思いや、アフリカでの自分なんてあっという間に忘れてしまうんだろうなぁ
と思っていたけれど

 

私は今も「アフリカの日々」の延長を生きている感覚があって
アフリカでの日々はちっとも色褪せることはありませんでした。

 

今だに「わ!これが日本か」と
驚くことはいろいろあるし、
なんていうか、アフリカで経験した強烈な日々が今も自分の中に色濃く流れているのが感覚としてとても鮮明にわかる。


約10年間、私を虜にしてくれて、
そして私にたくさんの希望とエネルギーを与えてくれて、
今はこの夢に
本当にありがとう
という気持ち。


一番最初に「感謝の気持ちのほうが大きいから、私は幸せだしかわいそうじゃない」と書いたけれど
私が今穏やかに現実を受け止めることができているもう1つの理由は、
今が通過点でしかないと思っているから。


今回経験したことを必ず日本の子どもたちに伝えていきたいし、
語学の勉強ももっともっとがんばって
私が助けてもらったように
今度は日本に住む外国の人を助けられるようになりたい。

 

どうがんばっても自分一人の力では打ち勝つことができないコロナウィルスに反してでも再渡航するのではなくて

 

またベストなタイミングでもう一度国際協力に携わりたい、
今は冷静にそう思う。


きっと人生にはいろいろなときがあって
今は、今やるべきことを落ち着いて考えたい。


アフリカで毎日見ていた、泣けるほど綺麗な夕日と、どこまでも続く広い地平線は
日本では見ることができなくなった。

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でも、私は、ビルがひしめき合い、真面目さと向上心が溢れかえっている忙しい日本も大好きで

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きっと、両方を見ているから、アフリカでの日々をこんなに愛おしく思うのだろう。

 

 


最後に。
底抜けに明るくて陽気な現地のみんな、生涯忘れられない日々を共にしてくれて本当にありがとう。

 

JICAスタッフの皆さん、最後のドラマのような脱出劇の際、的確な判断と指示に本当に救われました。生活すべてにおいての心強いサポート、心から感謝しています。

 

隊員のみんな、先輩たち、本当に私にとっての戦友です。きちんと別れを告げられずに離れてしまったのがとても心残り。

でも、また会えるよね。

 

何年も何年も笑、私の夢物語に付き合ってくれて、そしてたくさん話を聞いてくれた名古屋の友達たち、今の私はみんながいてくれたからです。

 

家族のみんな、奔放な娘をいつも大きな心で見守ってくれて感謝しています。

 

 

そしてなにより

最大の理解者である旦那さん、

「やれることが減る結婚じゃなくて、より人生が広がるような、強く生きていけるような結婚がしたい」
と言っていた私の願いを
しっかり実現させてくれました。
本当にどうもありがとう。
あなたのことは一生越えられないと思っているし
ずっと尊敬しています。

 

今までの日々に感謝して、

2020.6.30
夢物語、
完!

 

 

(と見せかけて、通過点なのでまだまだ続きます。!)

ティッシュ品薄事件から思うこと

 

あんなに物が豊かな日本で異常なまでに奪い合い、

こんなに物が無いアフリカで驚くほどに分け合いながら

人々が生きている。

 

一体、どうしてなのだろう。

 

この極端な2つの国を眺めていて、

いろいろなことを思う。

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今の私の生活と比べてみれば、

日本の生活は、もうそりゃびっくりするぐらい整っている。

停電断水も滅多になくて、山のように娯楽があって、教育や医療の環境も随分とよいものが与えられている。

 

 

しかし、日本人はよく怒っている。そして、焦っている。さらに、悩んでいるし、疲れている。

 

 

何故なのだろう。

 

私自身も含めて、日本で暮らす日本人の「幸せ」に対するハードルがものすごく高くなり過ぎているのかもしれない。

それゆえ、思い描いた「幸せ」が少し枠からズレてしまうと

この上ない怒りや焦りが出てきてしまうのではないだろうかと、最近考えている。

 

さらに、豊かさへの欲求が肥大しすぎて「もっと、もっと」と求めるがあまり、社会や人の構造が非常に複雑化しているようにも見える。

 

溢れるほどの選択肢から物事を選び

多数のタスクをこなして

時には人と自分を対比しながら

毎日を一生懸命生きている。

 

 

アフリカの暮らしは、もっとシンプルだ。

 

日本のように「豊かさ」が「当たり前」になることや

向上心をもつことができるのは

国として発展している証だから、それは喜ぶべきことだと思う。

豊かなことは決して悪ではない。

怖いのは、その「当たり前」に感謝ができなくなることなのかな。

 

アフリカでははっきり言って思い通りに事が運ぶことなんて非常に少ない。

思い通りに事が運ぶことが「当たり前」ではないから、少しうまくいくだけで、いつもの景色が違って見えてしまうほどの「感謝」がうまれる。

しかし、もちろんこの「当たり前」を増やしていく努力は絶対に必要で

思い通りにいかないのが善では決してない。

貧困は、何が何でも脱しなければいけないこの国の課題。

 

 

こんなことを書くと、日本という国や日本人を否定しているみたいだけれど

決してそんなことはない。

私は日本が大好きだし、日本人は世界に誇れる素晴らしい人間性を持った人が多いと思っている。

 

日本もアフリカも

もっと国が成熟して「当たり前」と「感謝」が両立できるようになったら、

幸せを感じられることも

人への優しい気持ちも

増えるのではないかと、一人で妄想をしている。

 

しかし私は未熟な人間なので、

日本の日常にいたらあっという間に「当たり前」の幸せに「感謝」できなくなってしまうだろう。

私がアフリカに来たのは、結局のところそんな自分に鞭を打ちたかったのだと思う。

 

教員という職業柄、

学校の閉鎖的な空間で、子どもたちに何もかもを知ったように物事を述べることに対しての恐怖心もあったかもしれない。

自分がいろいろなことを見て、経験した上で

子どもたちに「大丈夫だよ」と胸を張って言い切ってあげられる強い人間、

そしていろいろな価値観を知り、違いを認められる人間になりたかったのだと思う。

 

アフリカの人たちのために、

もちろん全力で努力はする。

 

しかし、自分のベクトルは

日本での自分や、日本の子どもたちのほうに向いているとつくづく思う。

言い換えれば、アフリカの人たちにいろいろなことを教えてもらいに来ているのだということだ。

 

イチローの話と重なるが

外国人になり圧倒的マイノリティとしてその街で暮らしたときと

マジョリティとして生活しているときとでは

見える景色、感じる思いは全然違う。

 

「暮らす」のと「旅をする」のとでも、自分の中に入ってくるものは大きく異なることがわかった。

 

この経験や感情は絶対に忘れないように、

日本に持ち帰りたいと思う。

 

アジア人への差別は、コロナの出現により

さらに根深く、強いものになっている。

 

私は、絶対に肌や髪の色で、人を差別しまいと

心に誓っている。

だって、それって泣けるほど悲しい。

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(今週末の市場での戦利品。全部で約490円)

 

きっと、今は世界中が、いろいろなことを問われているとき。

考えて、気付いて、何かを変えるチャンス。

私も無力なりに考えたいと思う。

日本の子どもたちと

本の学校、そして子どもたちと一緒に
「お手紙交換プロジェクト」
テレビ会議 遠隔授業」
に取り組んでいます。

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お手紙交換プロジェクトは、日本から来たお手紙にアフリカから返事を書くもの

 

テレビ会議 遠隔授業では、生中継で日本と繋がり、パワーポイントを使いながらアフリカについての授業を行っています。

 

お手紙が届いたときのうれしかったこと!
とっても元気をもらいました。
ありがとうございます。

 

アフリカに現職教員として行きたいと思い続けたのは、
目の前にいる日本の子どもたちに
「今いる場所が世界のすべてではないから、大丈夫だよ」
と自分の経験を踏まえた上で伝えられるようになりたかったことが
ひとつの大きな理由です。

 

自分が今生きている場所、
家庭と学校が世界のすべてだと錯覚しながら生きていくことは
時に膨大なエネルギーを消耗してしまうのかな
と思うことがあります。

 

踏ん張らないといけない場面もたくさんあるけれど
根性論だけでどうにもならないことだってたくさんある。

 

友達との些細ないざこざ
集団の中でなんとなく抱えてしまう劣等感
ちょっとした失敗
理不尽な出来事
ときに、家庭の問題

 

たとえ小さなことでもなんだか無性に気になってしまって
勘違いをしてしまったり
学校に行くことが辛くなってしまったり
抱えなくてもいい自己嫌悪で苦しくなってしまったり。

 

この世の終わりだと思うぐらい落ち込んでどうしようもなくなっても
学校を飛び出してしまえば
案外偏った価値観に支配されていただけのことだってたくさんある。

 

こんな世界、こんな価値観もあるのか
って知ることができれば
少し楽になれるのかなぁ
と、整った日本社会を生きる子どもたちに対してずっと思ってきました。

 

だから今回の2つの企画は
子どもたちの間で流れる風通しを少しでもよくして
いろいろな価値観があることを知ってもらいたい
という思いを自分なりに込めてやっています。

 

大前提は、すべての生き方をリスペクトすること。

 

しかし、大人になっても
自分の生きてきた世界にとらわれない
って意外と難しい。
だって私も
絶賛異文化に揉まれ中。笑
日々、自分の無力さと
毎日出会う新たな価値観に葛藤しながら
生きています。

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私の任地は1時間ちょっと歩けば町をぐるっとまわれてしまうような
小さな田舎町です。

 

スーパーも娯楽施設もおしゃれなカフェもないけれど
生き急ぎがちだった自分にとっては
すべてをリセットしてくれるすてきな場所です。

 

ときに価値観の違いに驚かせられながらも
自分の足りないところをゆっくりゆっくり埋めてもらっている感覚です。

 

何もないから
とりあえずご近所さんと木陰で歌って踊っています。
目の前のことをただただじっくり楽しむことって
幸せなんだなー、と学ぶ日々です。

 

疲れたときは、体力が回復するまで引きこもる。
完璧になんて出来ないもの。

 

こちらは日曜日の始まりです。
今から市場で野菜を買ってきます。