ティッシュ品薄事件から思うこと
あんなに物が豊かな日本で異常なまでに奪い合い、
こんなに物が無いアフリカで驚くほどに分け合いながら
人々が生きている。
一体、どうしてなのだろう。
この極端な2つの国を眺めていて、
いろいろなことを思う。
今の私の生活と比べてみれば、
日本の生活は、もうそりゃびっくりするぐらい整っている。
停電断水も滅多になくて、山のように娯楽があって、教育や医療の環境も随分とよいものが与えられている。
しかし、日本人はよく怒っている。そして、焦っている。さらに、悩んでいるし、疲れている。
何故なのだろう。
私自身も含めて、日本で暮らす日本人の「幸せ」に対するハードルがものすごく高くなり過ぎているのかもしれない。
それゆえ、思い描いた「幸せ」が少し枠からズレてしまうと
この上ない怒りや焦りが出てきてしまうのではないだろうかと、最近考えている。
さらに、豊かさへの欲求が肥大しすぎて「もっと、もっと」と求めるがあまり、社会や人の構造が非常に複雑化しているようにも見える。
溢れるほどの選択肢から物事を選び
多数のタスクをこなして
時には人と自分を対比しながら
毎日を一生懸命生きている。
アフリカの暮らしは、もっとシンプルだ。
日本のように「豊かさ」が「当たり前」になることや
向上心をもつことができるのは
国として発展している証だから、それは喜ぶべきことだと思う。
豊かなことは決して悪ではない。
怖いのは、その「当たり前」に感謝ができなくなることなのかな。
アフリカでははっきり言って思い通りに事が運ぶことなんて非常に少ない。
思い通りに事が運ぶことが「当たり前」ではないから、少しうまくいくだけで、いつもの景色が違って見えてしまうほどの「感謝」がうまれる。
しかし、もちろんこの「当たり前」を増やしていく努力は絶対に必要で
思い通りにいかないのが善では決してない。
貧困は、何が何でも脱しなければいけないこの国の課題。
こんなことを書くと、日本という国や日本人を否定しているみたいだけれど
決してそんなことはない。
私は日本が大好きだし、日本人は世界に誇れる素晴らしい人間性を持った人が多いと思っている。
日本もアフリカも
もっと国が成熟して「当たり前」と「感謝」が両立できるようになったら、
幸せを感じられることも
人への優しい気持ちも
増えるのではないかと、一人で妄想をしている。
しかし私は未熟な人間なので、
日本の日常にいたらあっという間に「当たり前」の幸せに「感謝」できなくなってしまうだろう。
私がアフリカに来たのは、結局のところそんな自分に鞭を打ちたかったのだと思う。
教員という職業柄、
学校の閉鎖的な空間で、子どもたちに何もかもを知ったように物事を述べることに対しての恐怖心もあったかもしれない。
自分がいろいろなことを見て、経験した上で
子どもたちに「大丈夫だよ」と胸を張って言い切ってあげられる強い人間、
そしていろいろな価値観を知り、違いを認められる人間になりたかったのだと思う。
アフリカの人たちのために、
もちろん全力で努力はする。
しかし、自分のベクトルは
日本での自分や、日本の子どもたちのほうに向いているとつくづく思う。
言い換えれば、アフリカの人たちにいろいろなことを教えてもらいに来ているのだということだ。
イチローの話と重なるが
外国人になり圧倒的マイノリティとしてその街で暮らしたときと
マジョリティとして生活しているときとでは
見える景色、感じる思いは全然違う。
「暮らす」のと「旅をする」のとでも、自分の中に入ってくるものは大きく異なることがわかった。
この経験や感情は絶対に忘れないように、
日本に持ち帰りたいと思う。
アジア人への差別は、コロナの出現により
さらに根深く、強いものになっている。
私は、絶対に肌や髪の色で、人を差別しまいと
心に誓っている。
だって、それって泣けるほど悲しい。
(今週末の市場での戦利品。全部で約490円)
きっと、今は世界中が、いろいろなことを問われているとき。
考えて、気付いて、何かを変えるチャンス。
私も無力なりに考えたいと思う。